走れ貴族

思ったことを書き散らします。

依存したい


100%依存できる相手って、親以外にいるんだろうか。

 

俺は幾分か裕福でまともな家庭に生まれ育ったので、親との関係はさほど悪くない。人並みに家庭環境のことで悩んだりはしたつもりだが、それを贅沢と断じる人は世間全体を見ればそれなりにいるだろう。だからこの「依存」対象に親を含めるのは間違っていないと思う。この世のあらかたを敵に回したとしても、両親が最後の砦として機能する確信が俺にはある。金銭的にも、たぶん精神的にもだ。


自慢っぽい前提を踏まえたうえで、じゃあ他に依存できる相手って誰かいるんだろうか、という本題に戻る。


だいたいこの問題の多くは交友関係の内に帰結する。非人間、物質や概念に依存するという方法も語られてはいるが、例えば宗教を介して依存する対象は実のところ実在の司祭や人格が内在する神であったなど、こういうのは概念を通して人間を見ているケースが多いという印象を持っている。イマジナリーフレンドも実在か非実在か、理想的か現実的かの差があるだけで、依存対象としては間違いなく人間だ。依存物質として著名な酒やタバコ、薬物などに関しては、これは依存というよりもむしろ自己の投棄である。「受け入れられることの快楽を感じる」のではなく「不快な思考を捨てる」ことに重点が置かれているので、正確には依存と呼ぶべきでないと定義したい。そう、俺は受け入れてほしいのだ。己が俺であることを捨てたくはない。

まったく人間の要素を持たない対象に精神的依存が可能なのかどうか、そのあたりの考察についてはおそらく何らかの研究が進んでいることと思うが、あいにくと俺は無学だし勤勉さも持たないので、誰かどこかから伝え聞くまで、少なくともこの文中においては不可能と断じておく。
で、自分は神がいないと信じているから宗教等スピリチュアル系には向かないし、空想上の友達とつるむのも得意じゃない。物質に人格を見出して、天井と床がどうBLに励むのか悩んだりもしない。だから必然、俺が依るべき対象は友人恋人、恩師や上司、そういった実在かつ近しい間柄の人間に限られてくる。もう友人か恋人に限ってしまっていいかもしれない。ここ数年、それ以外に対して心を開いて接触することがないからだ。


ではいよいよ具体的な話に移っていこう。

俺はとにかく人に対する執着が強く、独占欲の塊で、恐るべき嫉妬深さを持つ、有体に言えば典型的なメンヘラ気質なのだが、同時に極度のカッコつけたがりでもある。基本的にはこのカッコつけたがりがメインで表出しており、対人関係においては「どうすれば人から良く見られるか」というのが自分の言動を決める至上命題になっている。なお、面白いことにココには「自分を磨く」という要素がほとんど入っていない。今は多少意識しているが、それでもかなり薄い。自分の外見が優れていないという諦観、自身の能力が他者よりも優れているという驕り、そして生来のズボラさが悪魔合体した結果だ。俺は自分が労せずして可能な範囲でカッコがつくように振舞っている。

このメンヘラとカッコつけたがり、諦めと優越感、相反する概念が同時に渦巻いているのが自分の中の実にやっかいな部分だ。例えば俺はよく人から「メンタルが強い」と言われるが、厳密には極めて強い部分とボロカスに弱い部分があって、弱いところは頑なに開示しないのである。

強い部分はカッコつけによって成り立っていて、そこには「物事に理解のある男はカッコいい」という思想が通底している。悲しいことや辛いこと、嫌なことがあったからといって感情的になる男はダサい。イケてるメンズはどんな事態にもまず理性的思考で臨み、事象を多角的に観察することでそれを理解する。この平和な日本で並の収入を得て恵まれた交友関係に遊ぶ俺の立場からすれば、自身に起こる問題の大半は己の視点ひとつ切り替えれば理解の余地があり、熱情に頼って発散せずとも腑に落とせるものばかりだ。だから冷静に思案を重ねれば、多くの物事に妥当性を見出せる。ロジカルな、あるいはエシカルな良し悪しは別に考えるとして、とりあえず「確かにな」と心を落ち着けることができるわけだ。もし瞬間的に大きな熱量の問題が襲い掛かってきて、心を落ち着ける努力が間に合っていない場合には、「カッコつけたい」の方向性は「冷静な男」から「気丈な男」にシフトする。エンターテイナーは涙しない。演じるのは得意な上に、気丈な男はイケてる。当座をしのげばいずれ理解もできる。どうあっても無敵。

じゃあメンヘラの側面なんて存在しないじゃん、メンタル強者でよくね、とはならないのが面倒なところだ。人と接触していない、話していない間、俺の頭の中は常に何か直近の問題への意見とシミュレートでぐるぐるしている。不快なことがあったとき、誰かと意見を違えたとき、俺の中にはその相手が立っていて、心象世界のその人に都合のいい言動をさせたり弁舌で拳腕でボコボコにしたりすることでしか、俺はその妄想から逃れられない。いい人を演じ続ける鋼の強さの代償に、病んだ心から生まれるストレスは俺の中で風化させる以外の処理方法を失っている。この事実を書いていると胸が苦しい。だからこそ自己顕示欲の塊である俺をして、このブログの存在を誰にも伝えないのだが。要するに、カッコつけることに執着しすぎて吐き出す口を失ったのだ。そして妄想にどっぷり浸かって、理想の偶像に甘えている。「人に合わせようとしすぎ」とは元カノの弁だが、だって人の意見の尊重はすなわちその人への理解を示すことだ。カッコつけることが至上命題の俺にとって、それよりも優先すべき選択肢があるか? そうやって完成された自画像は、もう自分では破れない。より強固にするためニス塗りを重ねるしかない。最近少し自分の意見を相手に伝えるようにし始めたのは、あくまでも「その方が自然な人間としての振舞いっぽいから」だ。「俺がそうしたいから」じゃない。


これ書いてると疲れるな。


で、元カノと付き合っていたときにこの堤防が一度ブッ壊れた。本当は人に甘えたくて、ひどく嫉妬深くて、こと他者が自分に向ける心象に関してはマイナス想定から入るのが当たり前の俺にとって、久しぶりの男女の恋仲は俺の心のバランスを破壊するのに十分すぎるパワーを秘めていた。詳細はどうでもいいので省くが、俺は己の妄想の内でのみ振るってきたはずの後ろ暗く卑屈で甘え切ったわがままを、ついにここで実在の他者へぶつけてしまった。

自分の心の奥底から湧出する想いと、俺の表出させる素直っぽい振舞いは別物だ。俺は常に他人からの視線なしでは自分の行動を決められない。俺が素直に見えるときは、俺が他人から素直な行動をしていると見られたいときだけだ。己の行動のすべては打算からできている。打算的でないのは睡眠欲に負けたときとセックスで射精するときぐらいか。自分の一挙手一投足すべてに俺は理由付けをしていて、その感覚が頭から離れることはほとんどない。

(誓って言うが、この文章にはその打算が極力乗らないよう努力している。なぜならこれは思考の整理を兼ねた備忘録が主な用途だからだ。公開しているのはほんのわずかに捨てきれなかった自己顕示欲の残滓ゆえだが、それにしても自分の知り合いが読むことは想定していない。どこぞの誰とも知れぬ人がこれをどう読みどう感じたところで、俺の世界にいない人間の想うことなど仔細一切どうでもいい。)

それだけに、自分のダークサイドにも等しいクソな側面を表沙汰にしてしまったことは大きな衝撃だった。ある意味俺が人に対してもっとも素直だった瞬間かもしれない。が、自分にとってそれはまったく快適な時間ではなかった。


依存するとは、そうしたクソな側面も含めて己のすべてを晒し、その上でなお受け入れてもらうこと、そういうことだと思っている。俺の下水みたいにドロドロした感情を目の当たりにした上で、その上でなお「カッコいいよ」と言ってもらえたなら、真に認めてもらえたなら、それは理想的なゴールになるだろう。そしてここまで書いているのだからもはや自明だが、俺にそれが起こる日は当分来ない。だって友人でも恋人でも、そんなところを見せるのはカッコよくないから。仮に見せたとしても、今度は自分が信じられない。すべての行動は打算からしか導かれず、俺は俺が見せたい自分しか見せないんだから、もし一大決心をして誰かに俺の暗いところを伝えたとして、それが無意識にカッコつけの心によってセーブされていないとなぜ言える? さらに、俺はそもそもカッコよくないから己を演じているわけで、なのに肯定してくれる相手の発言というのもこれはこれでまた信じられない。そして極めつけに、これらすべてが肯定的に信じられる状況が、ifの話ですら自分の中に思い描けない。

 


終わっとるやん。

 

なんか認識変わらんかな。

自己紹介


俺は女性をめちゃくちゃ性的な目で見る。
仲良くしている様を思い浮かべ、セックスに興じているところを想像する。重要なのは性交そのものではなく、互いが相手を想いあっている前提だ。その妄想を異常だとは思わないが、程度で言うならおそらく人よりもかなり高い頻度で、そういう思考に耽っている。分かりやすく言うならば、エロゲーのヒロインに相手を嵌め込んで攻略シナリオ全体を楽しんでいる、そんな感じだろう。消費の的として見ない相手はごくわずかで、それらは極めて好まざる容姿であるか、極めて好まざる言動をするか、どちらかだ。たいていの相手に対して脚本をイメージし、あんなことやこんなことを頭に浮かべる。

 

同時に、道行く人にはほとんど関心を払わない。
雑踏を行き交う見知らぬ顔が、容姿が、どれだけ美しくどれだけ劣情を催すものでも、だいたいは覚えていない。それらは俺の世界にいないからだ。俺の世界にいるものは、俺と関わりを持つものだけだ。今しがた肩の触れ合う距離で知らない化粧の香りを残していったあの人も、顔のないモブでしかない。登場人物にはなり得ない。

 

自分にとって恋愛とは、関係に酔うことだ。攻略ルートを作り、失敗のないようになぞり、成功確率を80%90%まで上げて、半ば最終確認のような告白を実行する。その過程を楽しみ、結実の瞬間を楽しむ。俺はけっこうサービス精神が旺盛だから、基本的に相手のやりたいことを尊び、相手の喜ぶ姿を見て是とする。シナリオにはたくさんのイベントがひしめいていて、どのシーンを消化しようか、どんな企画を補充しようか、常々考える。
これを読んでしまった方は筆者がどんなイケメンチャラ男の遊び人か想像を巡らせただろう。そうであったならどれだけこの遊びがもっとスムーズに進められたか、俺自身が一番残念に思っている。が、まあそれでも良い人ぶるのは割と得意で、生来のチキンさと理屈屋ぶりが適切な距離感を演出するのか、確かに人と仲良くするための第一関門は突破しやすい性質を持っていると思う。

 

ここまでの話をまとめると、「人と知り合ったそばからワンチャンありそうな気配を探り出し、いけそうと感じたら恋愛開始」というのが自分の行動原理になる。
いやそれは恋愛じゃないだろ、と思った方。俺もそう思う。こういうのはいわゆるヤリモクの手法っぽい印象だ。そして実際俺の目的はそれに近い。
今まで俺は、自分の望みが恋愛関係全体の構築にあると思っていたが、おそらく実際のところはそうでない。セックス単体が目的になっていないのは、俺の性癖的にセックスのみでは楽しみ切れないからだ。世の中にはいろんな趣味嗜好を持つ人がいて、俺の場合はイチャラブが必須となる。NTRや暴力、一方的な欲求のみが支配する描写は食指が動かない。だから自分のもっとも楽しめる営みを構築するために、まず真っ当っぽい恋愛成就を目的とする。そうすれば好みのメニューをいただける。

 

要するに好きな人なんていない。それっぽい関係が作れれば、そこがゴールだ。あとはそのぬるま湯でほろ酔いになって、気持ちいいまま過ごしていたい。一番良くないのは関係の破壊だ。だから相手に合わせる。自分の欲求を口に出して、風呂桶にひびが入ったらどうする。のんべんだらりとしていればいい。関係を成就させられたということは、その時点での自分が高く評価されたということだ。だったら波風立てる必要はない。自ら動く必要はない。肯定された自分のまま生きる。承認欲求と性欲をコンスタントに満たす、甘い蜜壺が欲しいだけだ。人が好きかどうかはベッドで自分に言い聞かせればいい。

 

 

 

さて。

 

 

 

ここに一人の女の子がいる。この女の子は確かに俺と付き合っている。けれど、すべてが受動的だ。うちに来ても俺とは話さない。俺が声をかければ返答を返すし、外へ誘えば一緒に来てくれるが、能動的な働きかけが何もない。付き合う前まではそれなりに饒舌で、積極的なやりとりがあったのに、関係が始まったとたんにピタリと止んだ。家に来てもらって行われるのは、アニメ鑑賞とゲームと食事の準備だけ。メシは美味いが、まるで満たされない。


いろんな手を考えた。例えば、俺のアプローチが足りないのではないか。俺以上にチキンで引きこもりな性格で、こちら側から抉じ開けるアクションが必要なのでは? しかしこのプランは実に簡単に頓挫した。俺に彼女のことが好きという感情がないからだ。クズなのは事実なのだが、なぜかそこにこれ以上の嘘がつけない。
距離感を今の相手に合わせればいいのでは? これもダメだった。実際にやってみたがダメなのだ。相手が「ちょうどいい」と宣った距離感は、俺が彼女に無関心を貫くことでようやく実現できたものだった。そんなんイチャラブと真逆じゃないか。クソだ。

 

「俺に関心を持ってほしい」彼女にそう伝えて返ってきた言葉は、「どうすればいいか指示して」という旨だった。
そんなやり取りはまるで初めてのことで、俺はひどく悩んだ。本当に奇妙だった。彼女には指示を受けてその可否を判断し、可能であれば実行する意思があるらしい。でもその口ぶりを聞くに、自分で問題解決に働きかける意思は感じられない。そりゃそうだ。それが彼女の基本スタンスだからだ。たぶん俺以上に、彼女は他人に興味がない。付き合うことになるまでは、他人との交流に必要なコミュニケーションという義務が彼女を動かしていた。しかし俺が己のチキンさと貞操観念の固さ故にライン引きしていたのを、彼女は「この人は自分の理想と同じ距離感を持っている」と判断してしまったのだ。「一緒にいて楽」という言葉は「一緒にいてストレスを感じない」ではなく、「ひとりでいるのとほぼ一緒」という意味だったのだろう。それって人間二人が同じ空間にいる感覚として、はっきり言って終わってる。

 

で、ああでもないこうでもないと無い頭を捻りに捻って、気付いた。
これは他人から見た俺なんだ。

 

関係の表面をなぞって満足していたことも、波風立てないよう相手に合わせる姿勢も、笑えるくらい同じだ。「どうしたらいいか指示して」? 俺が今までどれだけの間、その言葉と同じ気持ちで「君に合わせるよ」と言ってきたか! 彼女は「好きという感情がまだはっきり分かっていない」と言っていて、自身のやっていることに無自覚な以外は本当に俺の生き写しだとすら感じる。俺はさすがに二人でいて相手に話しかけないなんてことはしないが、それだって程度の問題だろう。俺から見た彼女がおかしなように、人から見た俺もまたおかしな人間に違いない。

 

そして同時に思い至った。俺には好きな人がいた。
同じ状況になったとき、まるで抵抗なく「好きだ」と言って抉じ開けにかかれる相手がいた、その事実に突き当たって俺の頭は爆発した。めちゃくちゃになった。そんなことあるか? あった。
その人は俺の恩師だ。育ててもらったと言って過言ではない。付き合った期間は一年もなかったが、今の俺が自己実現に向けて幾ばくか努力しているのは、その人が最後に俺の背中を蹴っ飛ばしてくれたからだ。そこで考えたあらゆることが、今の内省のきっかけであると言ってもいい。
ぬるま湯に浸かっている間、そんなことは微塵も考えなかった。当時の自分を恨めしく思う。それでも幸いなことに、今の自分はそれを考えることができる。
別れたときに涙が出なかったのは、好きじゃなかったからじゃない。その顛末のすべてに納得したからだ。納得できたのは誰のおかげだ?

 

つまらない成功譚だ。俺は気付けた。運が良かった。他の誰も共感しえない、俺だけのラッキー。

 

それでいい。
これは自己紹介で、お涙頂戴の感情サプリじゃない。

 

今俺がしたいは、今の彼女に俺の気付きを示すことだ。
自分のこれまでの過ちを認めるのはたやすい。その過ちを理由に、関係を終わらせるのもたやすい。だが俺が受けてきた施しを、俺が納得してありがたがるだけで済ませるのは、俺の沽券に関わる。良い人ぶりたいのだ。徹底して。誰も見ていなくても。

 

これは自己紹介だ。

思考の墓場じゃない。